第250回 ~近代石油産業の原点、エドウィン・ドレークの生涯 ~の巻(2024年6月12日)
かめりん、石油が広く使われるようになる前にはクジラから取った油が燃料に使われていたって本当?
うさりん、そのとおりよ。19世紀くらいの話ね。米国のペリー提督が1853年に日本に寄港したのも捕鯨との関わりがあるの。
ほんとに?
そうなの。かつて米国周辺でも捕鯨がされていたのだけど、乱獲によってその数が激減してしまったの。ペリー提督のように外へ目を向ける人もいたのだけど、国内でも鯨の油に代わるものへの意識が向けられていたわ。
もしかして、それが石油?
そのとおりよ。そして近代石油産業が発展するきっかけを築き、捕鯨から石油への転換点を築いたといってもいい人がいるの。それが米国人のエドウィン・ドレークという人よ。
名前は聞いたことあるよ!ドレーク大佐とも呼ばれていなかったっけ?
そうなの。なぜ【大佐】と呼ばれていたかは、諸説あるのだけど、彼が軍で【大佐】だったという事実はないの。
え、偽物の肩書だったの?
そうなの。エドウィン・ドレークは今から205年前の1819年、ニューヨークのグリーンビルで生まれたわ。成人したあとは職を転々として、石油事業に着手するまでは列車の車掌をしていたのよ
へえ~そうだったんだね。
だけど鉄道会社に勤めていたころに病気になってしまったの。石油事業を志したのは1857年、38歳のころよ。
どうしてまた石油事業に?
ちょうどそのころ、セネカ社という石油採掘会社が創設されて、ドレークはたまたまそこに雇われることになったの。 そしてペンシルベニア州のタイタスビルへ赴き、無謀と言われた石油採掘に挑戦するのよ。最初は失敗の連続。当時原油を取る手段というと手掘りの井戸や池から出てくる油を汲み取る方式が考えられていたの。
それだと取れる量も少ないし、時間もかかりそうだね。
そうよね。そこでドレークは画期的な【綱堀式削井法】を発明したの。これは『ビット』という岩石を破壊する装置をワイヤーロープにつけて、それを上下させて岩盤に衝撃を与えながら掘削する方式なの。 1859年8月27日、ついに地表から69.5フィート(約21m)から原油を掘り当てることに成功したわ。日量20~40バレル程度の出油があったとされているわ。
やったね!それでドレークはお金持ちになったんでしょ!
ところがそうはいかなかったの。ドレークは自分が発明した採掘法の特許を取ることに失敗。これまでの石油採掘事業でお金も底をついていたの。油価も安くて全然儲からなかったみたい。結局タイタスビルから離れざるをえず、その後も貧窮のうちに暮らしたの。
そいつは気の毒だよ
そう思ったタイタスビルの住人は、募金活動を始め、1873年にはペンシルベニア州政府から年間1,500ドルの年金が支給されるようになるのよ。ドレークは1880年にペンシルベニア州のベツレヘムで亡くなって、タイタスビルへ埋葬されたわ。
そうだったんだね。ドレークは経済的には成功しなかったけど、その後の石油産業の隆盛を思うと、ドレークの成し遂げたことの偉大さがよく分かるね!
そうよね。ドレークの発見をきっかけに、世界で石油事業が発展していくんだものね。ちなみにリム情報開発が今年発刊した『エネルギーの歩み』では、エネルギーの歴史をより詳しく書いているわ。ぜひ読んでみてね!
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(文:原 )
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